昭和53年1月23日 御理解 第58節
人が盗人じゃと言うても、乞食じゃと言うても、腹を立ててはならぬ。盗人をしておらねばよし。乞食じゃと言うても、もらいに行かねば乞食ではなし。神がよく見ておる。しっかり信心の帯びをせよ。
信心を愈々進めて行くと、 過程には様々なことがございます。ございますけどそれは後で分からせて頂くと、結局信心を進めさして貰う、信心を高めさして貰うその材料以外には何もないのです。信心の段々進めて行く過程、願う氏子におかげを授け理解申して聞かせと仰せられます様に、確かにはじめての信心、おかげを受けたいと云うて参ってくる、そう云う人達にああやっぱり神様ちやござる、成る程信心ちや有り難いと云うおかげはかならず頂くんです。けどもそう云う願いが成就されると云う事が信心ではないのです。またそれが成就されたからと云うて、人間の幸福があるのではないのです。そこから所謂理解申して聞かせと云われますから、その理解を受けてそれを身につけて行くといふことが、大切なのです。云うならみ教えを自分の血に肉にして行くと云うこと、それも生活全般の上にそれを頂いて行くと云うことが大切なんですね。それこそ顔に関わる様なまあ愈々これは極端な言葉で表現してありますけど、人が泥棒だと云うても、乞食ぢゃと云うても腹を立てな、そこんところを段々神様を信ずる力と、その信ずる力が、どう云う働きを及ぼして行くかと云うことを体験して行くのです。あああんなことを云われたが、あんとき辛抱しといてよかった。こう云うおかげを下さるためであったと分かるのですね。それは例えば、乞食だ、泥棒だと云われてもです、そりや一つのいろんな悪口でもよいです、けどやっぱり昔から、火の無いところに煙りは立たんと云う諺がある位ですからね、なら悪口を云われてみれば、その悪口をやっぱり素直に聞いてみて、厳密に自分の心の中にです、それこそ顕微鏡を当てて見る様に、自分の心の中を見てみると、やはりそのことに依って改まらなければならないことは沢山あるのです。同時にまたそこをどう云う事であっても、じっと我慢を、我慢ではいけませんから、やはり信心辛抱です。我慢、我力がいかんとおっしゃるから、もう私が一人馬鹿になっときゃよかと云うのは、これは我慢我力でしょうね。けども神様が見ておいで、神様が聞いておいで、それが段々信じて来れる様になるとです。そのこともまた所謂有り難しとして受けて行けれる様な、そう云う姿勢がやはり大事なんです。所謂その時にしっかり信心の帯びをせよとこう云われる。自分の信心が云うならズンダレとる、そこで云うならば信心をこうやって、いつかこの御理解を頂いた時に、あの昔割り木というのがありましたね、薪ですをいわえてあるんですけど、ガタガタになってゆるくなっている、そこで、それに四、五本こうやって直木を詰めますとビシッとなって、輪がしまる、緩んでいる時ですから直木と云うか、真心と云うか信心を一段とそこに進めて参りますと、例えそれがしっかりした直木になります。そう云ういうならば信心の帯びをするとギユギユ自分の腹をしぼると云うことではない。それにこうゆって詰め手行く、または自分の帯びを締め上げて行くこともあましょう。まあそこにはいろいろ信心の帯びをしっかり信心の帯びをせよと、日頃頂いとる教えを思うてみると、ああここがこう云うところ、ああここが辛抱さして貰阪奈欄ところだなと、云うことになるわけで、そしてその後にです、本当に辛抱しておってよかつたと云う事になる。本当にですね、いつか頂いた御理解の中に、梅一輪一輪づつの暖かさ、かなんかと云う何方かの句でしたけどね、梅の花が一輪一輪咲いて行くに従って暖かくなつて行くんだと云うことなんです。梅と云うことはここで信心辛抱と云われますけど、その辛抱の云うならば一齣一齣がです、云わば冷たい思いの生活なら、生活を冷たい中にあるそれが一段一段、一歩一歩、一輪一輪暖かになって行く、云うならば生活が厳しい生活から、一歩一歩豊かになって行くことですから、もう仇おろそかにその一輪一輪がなされなければならないことが分かります。もう、二十数年もまえでしたが、私はタバコを沢山吸っておりますえ、もう北京時代からタバコはもうそれこそ五十本入り一缶では足りない位でしたけど、やはりこちらへ帰りましてもタバコは一時止めとりました。また次々とお供えを頂くものですから次々手がでて、また元に戻ってから毎日ピ一スを一缶づつキレイに空にする時代がありました。だからこれはいけないと思うてから、まあ日に十本なら十本でおかげを頂こうと、自分で買って飲ましません。もう私がタバコをのむと云うことになってから皆が始めの間は光りが集まって来ました。光りというタバコが、次ぎにピ一スがどんどん集まって来る様になって、もう月並祭なんかにはお三宝一台集まって来るのです。しかも缶入りがね。だからこれは私があんまり喫むからと思うて、とにかくもう五本くらい続けて喫まにやでけんですから、もう手はここら辺りから真っ黄うなってしまいますからね。それで手が出ろうとする時に、ハッといわゆる金光様を念じて、やっぱり五十本のが二十本になりと段々減って参りました。そんな時でしたがある時、あのフト手を引っ込めたとたんに、御神眼に下さるのが日まわりの花を頂きました。唯タバコ一本辛抱するだけでも、神様が修行として受けて下さると感動したことがございます。私はほんとにこの辛抱力を作って行く事に、所謂塵もつもれば山となると云うか、タバコ一本辛抱ですら神様が見逃しはなさらないです。精進しておるとして受けて下さるのです。日まわりと云うのはそれこそ熱い方に太陽に向かって咲く花だと云われとります。これは喫んだ方が楽だけれども一寸手を控える辛抱する、たったそれだけでも神様が精進しておるんだ、修行しておるんだと受けて下さる。それから私は愈々そのことがです、本気で止めにゃいけんなあと云う気になりました。その前後してピ一スから富士と云う、その当時は最高のタバコでしたが毎日集まって来る。毎日頂くだけお供えするとと云う人があったんです。それで二三日ぐらい喫みましたけど、フト気づかせて貰って、こりゃもうこんなことしよると、妙賀が尽きると思いました。あの時分富士が百円ぐらいしたでしょうかね。一番とにかくタバコでは最高のタバコ、贅沢なタバコです。そう云う贅沢が出来るからと云うて、それに甘んじとったら妙賀が尽きると思いましたから、もう富士がお供えに来る様になってからピッシリ止めました。それで今日まで続いとる。一本のタバコを例えば一寸控え様とすればです、神様が精進として受けて下さり、修行として受けて下さり、それが貯まりたまって、信心辛抱の徳ともなって来るのです。塵も積もれば山となるです。それこそ梅一輪一輪のあたたかさになって来るのです。だから信心とはね、信心に依って本当の幸せを得たい、しかも日勝り、月勝り、年まさりではない代勝りまでも繁って行く、金光大神の教えと云うものはです。そげんせからしかなら、そげんせにゃならんちゅう人にはだから出来ませんのです。それをせからしかってお願いして、唯おかげ頂くだけならそれだけで終わるんです。日勝りにもならんでしょう、月勝りにもならんでしょう、いつも堂々まはりでしょう。そしてやっぱりお願いすりゃおかげ頂くけん、あらたかだ有り難いと云う信心だけではなら三十年五十年続いたところで、だから大したことはないです。その梅一輪一輪を大事にして行くことなんです。それこそ塵もつもれば山となるのです。そう云う精進がです身について来ることが信心なんです。その中にはそう云うタバコ一本の中に一寸精進をすると云う行き方ぐらいの事からです、たまにはそれが泥棒だとか乞食だとか、それこそ根も葉もない様な悪口雑言を聞く様なこともおろうけれども、そう云うところを大事にして行く。昨日或る方がそれこそもう大変難儀な、難儀と云うよりも、もういわゆる悪言雑言ですよね、伊万里の竹内先生のところまだ四月なんですけどね、もうこんど前の市長さんがこんど立候補されるのです、もうそれこそあることないこと悪言雑言、もうそれを聞くだけでも夫婦の者がへとへとになっておると云う感じなのです。それで嫁が何か用があるから手伝いに行くと云うお届けがしてありますから、母がへとへとになっとります模様が見えますからあの子供づれで、お手伝いにゆらせて頂きたいと云うから、お取り次ぎさして頂いた、そしたら頂くところからね、蓮根の節の真っ黒いものを頂くのです。どうでもここんところは通らねばならんところだと云うのですね。だから信心をさせて頂いたらね、どうでも段階が段々進むにつれて、通らなければならないところがあるのです。信心しよってどうしてこんなと云う様なことがあるんですやはり、だからここんところが辛抱出来なかったら、信心しとってこう云うことが起こるならと云うならと云うなら、もうその人の信心はそれでおしまいなんです。これはまあだ自分の信心が足りんのだと思うて、一段と信心を進めて行くならば、ここは何もならん切って捨てたいところだから、何んならんと云うて切って捨てよったんぢゃ次ぎの信心に伸びて行かれんです。結局同じところをまた通らんならんです。日々の中にです、日々ここはいらんと云うところはない。そこを大切にして行く事のために心行がいるんだと云うふうに、最近は云われるんです。もう通らなければでけないところなんです。そこを通るところを折角通るならば有り難いで、それこそ神願有り難いで受けて行く手立てを、日頃しっかりしとかねばならんと云うことになります。今日私はこの五十八節から、そう云う信心の過程に小さい辛抱、もう辛抱が出来んと云うところもあるけど、そのもう辛抱が出来んと云う程し、もうここから折れそう様にあるところを大事にして行く、それは後で考えて見ると、こう云う力を下さろうとするこう云うおかげを下さろうとする働きで、やはりここは一遍通らなければならないところであったと、分からせて貰って、あれもやっぱりおかげぢゃったなと分かるんです。そりゃそうでしょう、この世で人間の幸福のすべてが頂ける程しの、しかもその幸福な心そのままに、霊の世界まで持って行ける程しのそれと、こんどは後に残ると云う程しのものを頂こうと云うのが金光様の御信心です。もう教祖様はそう云う人間がお徳を受けるために御出現になったと云うても良いのです。世の中の難儀な氏子を取り次ぎ助けてやって呉れと云うことは、唯病気を治してやって呉れ、唯商売繁盛を頼んでやって呉れと云うだけのことぢゃない、それはほんの手掛かりにしか過ぎんのです、ね。ですから本当の金光大神の教えを頂いて、目出度、目出度の若松様よ、枝も栄える葉も繁ると云うではないか、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えるのぢゃと教えられるのですから、その道を本気で習う姿勢をつくらねば、金光様のご信心は如何に楽しく有り難い、場合には愉快にすらなれる道だと私が説きましても、その有り難いも、愉快な心も、開けんなりに唯おかげを頂いたから有り難い、おかげを頂かなかったらく一としとると云った様な一生で終わったら、つまらんです。
昨日研修の時に西岡先生が、末永せんせいがまだブラジルに行く前のここで修行中の時分の話を混えて発表しとりました、先生がいろんなものに欠乏して、あの何と云うか、私共は猿股と言いますか、もう猿股が二枚しかない、それを一枚が破れてしもうちから、もうどうにも出来ない、修繕もするだけしたけれども、時に最後の一枚をね、洗濯させて頂きながら押し頂かねばおれん心が生まれたち、西岡先生私はそれ以来、衣服には不自由しない、もう本当にそこを頂かねば駄目ですよ、と云う話を西岡先生が発表されました。もうそれこそ不思議に誰彼の者が持って来て下さる、もう下着衣類、私はその事を聞きながら、昨日或る方のここで結婚式がございました。花婿さんが何と花婿衣装を忘れて来とる。ちょいとのん気な花婿さんがあるもんだと思いましたんですけどもね、そしたら私の紋の付いた、紋付きを羽織りも長着も着とりますもん、ところが下に黒襟ですから、花嫁さんは白無垢でしとるとに、もう時間が過ぎとりましたけれども、着替えさせて裸になしたところが、てんでこう、ぞろびきよるもん、まあからげてあったらしいのですよ、私がとにならこげん長か筈がなかっにと、私は思ったらこれは末永先生のですと云うのですよ、今日はじめてシツケを取りました。もう私はそれを聞いて、本当に午後の研修の時、それとこれと思ってですね、もう確かにこの神様は力を頂けばね、そげん紋付きのごたる仙台平の袴なんて、そげなものは集まり
集まる と云うごたるでしょうか。ばってんお徳と云うものはそげなもんぢゃないです。勿論あちらではそげなもの着ませんから、こっちさえ持って帰ってきとつた、まだシツケの付いたまま、袴も羽織りもこの長衣も、勿論花婿さんのには一寸長過ぎましたから、からげてね、それから白襟の肌着を着せてから、大体おかしくない様に致しましたけど、私はそれよりも本当にこう云うものが身に付いておったことが本当に有り難いと思いました。羽二重の紋は上下ですよ、それに仙台平のたらっとした袴デス、新しいものです、ね。確かに西岡先生が云う様にだから通るところを通らなけりゃ、もう自分は猿股一枚しかなかけんと云うて悔やんだら、ならこんど私が買うて来てやりましょうと云うて、買うてきて下さる人もあるです。けれどもその一枚になった猿股をね、拝まずにはおられない、そこを通り抜けた時にです。もう西岡先生私はそれ以来なら衣類と云うものに不自由しません。そうだろうと思います。ブラジルからあの暑いところから帰って来とるけん、夏物だけしか持って来てないです。だから親子五人の者が借り物ぢゃないです、もう誰かが家族中の者が衣なら衣に不自由してない事実が分かるでしょうが、それこそ一輪一輪有り難うなって行くところをです、おろそかにしないから、おかげ頂くのです。こりゃもう衣だけではありません、
食だけではありません、もう衣、食、住すべてのものが、その行き方を以て行くならば、そのおかげがお徳が受けられるのです、ですからそれが例えば、どういうきつい事であっても、それがもうそれこそ泥棒と云われたり、乞食ぢ’s云われたりであったもです。そこをじっと辛抱しぬいてです、本当に神様の深いご心慮が分かれば分かる程、この様にして信心をお育て下さるかと思うたら、その事に対してお礼が言えれる様になる、そう云う信心を身につけてゆくことなんです。
昨日研修の時に私申しましたんですけど、本当に会楽のご理解はね、神人と或る先生が云われたと云うが、確かに神と人との間から生まれて来るのが会楽の信心です。例えば昨日の御田ですかね、御田と書いて、御田とこれはいつも受けものとおっしゃるから、今までは私だん知らぢゃった、受けもの作らにゃ、受けもの作らにゃとは言いよったばってん、御田 、御受けもの 気が付かなかった。初めて成る程おかげを頂くのだから、やはり受けものもやはり、御受けものぢやなからなければいけない事がわかった。そしたらそれに田という字に草冠をつけた、つけて下さる。そしたら苗と云う字になった。読むと御苗となったね、御受けものに御苗が入ってはじめて云うならば稔りの秋ともなるわけ、そう云うお話を昨日聞いて頂きました。だから唯聞きのがしたらですばってん、神様がどうして大坪総一郎にそう云う御田とか、それに草冠をつけて御苗とか読ませたり、それに御理解を下さる、その神様のお心の間を思うたらこのことだけでも、とても、とても大変なことなんです、本当云うたら、天地の親神様が私を通して会楽に分からせよう、聞かせようとなさるその御神意をわからにやいかんです。そして成る程御田をつくらなければいけない、御田を作る今日はお話なんです。そこに必ず御苗がそして末永先生の話ぢゃないけれどもです、そう云う結構なおかげにもなって来るのです。通るところを通らずして、だからね、唯楽だけを願う信心では、所謂信心が成長する筈もなからねば、それはいつも堂々まわりのおかげにしか過ぎません。そう云うところを一つ一つそれこそ梅一輪一輪づつ、暖かさが身に感じられる様な信心をしなければいけない。私は昨日そのことを今日のご祈念中に思わせて頂きながら、その御苗と云うですね、その苗と云う草冠に田と云う字の構えにね、獣偏をこうやって付けるところを頂いたんです。どう云うことになりますか苗と云う字の左の方へですね。獣偏を書いてごらん猫と云う字になるでしょうが。ここで皆さんがいつも頂かれる、猫と云うのは不成と云われる。
不成、なら金光教で云われる不成と云うのは成就せぬことぢゃとおっしゃる、神様が一番お嫌いなるのは不成です、ね。願ったことが成就せぬことを嫌いなさるのです。成就させたいと思ってもです、云うならば不成に終わってしまう、その不成に終わってしまうその内容は、私共の方にあるんです、ね。いわゆる獣偏と云うのはです、まあ判り易く云うならそれこそ人間の面しちゃるばってん、心は夜叉のごたるとか、所謂人面獣身と云うかね、人の面しとるけど心は獣の様な心がある。ところが実際お互いの心の中に獣身があるんです。
折角神様が御田を作らして下さろうとする、だから御田を一丁本気で作らせて貰おうと思う、今日の様な御理解を頂いて、愈々御田を、作らねばならないなとと云うことに精進しておる人がです、それこそ人間にはあるまじきと云う様な心を使うたり、もし行いを行ったと、もし、してごらんなさい、これはもう不成に終わる。そう云うことでもう折角ここまで進んだ信心がまた元にコト一っと落ちた様なことがお互いの上に、沢山ありはせんだらうかと思います、ね。云うならばお道の信心は神心を目指すといわれるが、神心とは全然反対な、仏の心と鬼の様な心、けだものの様な心をです愈々改めに改めて、神心へ向かって進んで行くと云うのが信心です。我情と云う我欲と云う、それが形に表れる様な、ところになって来るときに、折角の云うならば恩苗もです、ね。猫に終わってしまう、不成に終わってしまう様な今日はことを頂いて、考え様ぢゃ厳しい様だけれども、考え様ぢゃこげん有り難い楽しいものはないと思いますね、自分の心からそう云う汚い心を取り外して行こうと云う精進なんですからね、自分の心の中にそれこそ汚い心が起こって来る。それと云うならば頭をうち振って、ああこんなことが獣の様な心ぢゃろうとうち振って、一寸辛抱するね、そこんところを一寸辛抱すると神様は、さっきタバコ一寸手を出そうと控えただけでも、向日葵のおしらせを下さった様にです、神様がそれを修行としておるとして、精進しておるとして受けてくださる、それが身について行くから、楽しいぢゃないですか、とにかく神様は向上させようの一途しかない、お徳を下さろうとする働きだけしかないと、云うてもよいわけなんです。この神様は決してです、例えば大小便でもです、さあ辛抱しとけと云う神様ではないです、ね。そう云うことではないですよ、辛抱と云うのは、なそうと思えば一寸精進をすれば出来れる、一本タバコを喫んで二本目に手を出そうとする時、アッとこう手を引っ込めることなんです。そう云う辛抱が梅一輪一輪の云うならば信心辛抱梅の花としての、神様がお受け下さってその一輪一輪自分の心の中に有り難い所謂、暖かく成って行くと云うおかげを頂いて行くと云うことが、私はお道の信心修行だと思うんです。折角云うならきょうは御田を頂く話を聞かして貰うた、本気で御田を作ろう、そこで精進をする、そこに獣偏がつく様なことがあっちゃならんと、いわば用心さして貰う、用心と精進と云われますが、やはり用心して行くことが即精進である。そう云う稽古をして行く上には、通るところを通らせて貰う過程をふんまえながら、信心を進めて行くと云うところにです、愈々それこそ末永先生ぢゃないけれども、本当にそれ以来私は衣類に不自由したことはない、それは私だけではない、家内も子供達までの上にも、そのおかげを頂いておると云うことになるのです。有り難いでしょうが金光様の信心はね。打てば響く様に、云うなら力が感じられる様に、同時にそれがおかげを頂いてくるのですから、唯自分よがりにです、唯自分の心が助かって行くのとは訳が違うです。そこを私は積み重ねて行くおかげを頂いて、それこそ一輪一輪の梅の花が咲きほころび、そしてまた鴬も来て泊まる様な、いやそれが梅の実ともなる様な梅干しともなる様な、いつまで置いても悪くならんお徳を頂かして頂くための、信心修行に取り組まして頂かなければ、実を云うたら会楽通いの値打ちはない、と云うことでございます。 どうぞ。